文豪たちが愛したロンドンの文教地区に英国最大の書店チェーンの歴史ある店舗が佇んでいる。
その壮麗な赤レンガの館では「運命の出会い」が待っている。
「なるようになるさ〜ケ・セラ・セラ」などというモットーを掲げる貴族は、世界のどこを向いてもイギリスの上流階級以外、見当たるまい。いつなんどきも斜に構えがちな彼らのこと、いやこの場合、正確にはベッドフォード公爵ラッセル家のことなのだが。
ラッセル家はロンドンきっての文教地区、ブルームズベリーの多くの土地を所有する地主だ。彼らが「ケ・セラ・セラ」とばかり開発に着手し、中産階級の人々のためにため息が出るような美しいホテルや住宅の数々を手がけていったのが、19世紀末から20世紀にかけてのこと。その一つに、現在のイギリスを代表する書店ブランド「ウォーターストーンズ」を擁するネオゴシック然とした赤レンガの建物がある。雨どいの口を開け、周囲を睨みつけるガーゴイル(* 西洋建築で雨どいと魔除けの機能を持つ、怪物などをかたどった彫刻のこと)の足元に、前述したラッセル家のモットーが刻まれていると教えてくれたのは、ウォーターストーンズ・ガワー・ストリート店を統括するサイモン・ルイス氏だ。
「貴族のモットーにしては興味深いよね」そう笑うサイモンさんに、店の来歴について尋ねてみた。
「今では全英に約300店舗を構えるウォーターストーンズですが、ここは歴史的にも建築的にも格別に個性のある店舗です。1936年に創業したディロンズと呼ばれる書店が前身でして、その歴史の中で、隣接するロンドン大学の書籍部門のような役割を果たすようになりました。我々もその伝統を受け継いでいて、学術書の取り扱いなら国内でも当店の右に出る書店はありません」
創業者のヴィジョンが実現。英国のトップ書店に
ウォーターストーンズ自体は、1982年に読書を愛するスコットランド人、ティム・ウォーターストーン氏が、創業した書店だ。
出版業界に興味のあったウォーターストーン氏には明確なヴィジョンがあった。それは「文芸書を中心とした品揃え」で、そのため従業員はオックスフォードやケンブリッジなどの一流大学、芸術系大学の卒業生を雇い、文芸 ・教養系の書籍に力を入れる戦略でビジネスは大成功。10年で英国最大の書店チェーンに成長した。その後、他ブランドとの統合・買収・提携を重ねることで事業は拡大を続け、ウォーターストーンズは気づくと名実ともに英国のトップ書店になっていた。
面白いのはオーナーが変わっても店舗の様子が劇的には変わらないことだ。そこには地域性を大切にする姿勢がある。
学生パワーが育む書店文化。卒業してなお思いを馳せる
巨大チェーンとなったウォーターストーンズに対して、いい顔をしないロンドナーも多い。しかし紙媒体自体が衰退している現代にあって、出版社からは力のある書店の存在は歓迎されている。客としても売れ筋の本や専門書しか置かない小規模な独立店よりも、多くのタイトルを扱う大型書店のオールマイティーさは有難い。ガワー・ストリート店は教養書の豊富な取り扱いでは群を抜く個性も備えている。
サイモンさんは言う。「平均的なウォーターストーンズでは約3万点を扱っていますが、当店では約17万点を揃えています。医学、経済、法律など大学で使う教科書や参考書を数多く扱っているせいか、学生の出入りの多さには圧倒されますね。イギリスの学生文化を知りたいなら、ここに来るべき。彼らが卒業後もウチに戻って来ているのは嬉しい限りです」学生との心の結びつきがわかる、こんなエピソードもある。
「去年の今頃、店長宛に突然手書きの手紙が舞い込んだのです。匿名で。開封するとこう書いてありました。自分は約45年前に貴店より勝手に書籍を拝借してしまった者だ。ここに代金とインフレ分を足した額を返済したいと。そして小切手が同封されていました。この人物が当時、学生であったことは想像に難くありません。驚くと同時に温かい気持ちになりましたね。お金は業界のチャリティーに寄付しました」
チェーンでも独自性を発揮。地域の歴史も取り込んで
ウォーターストーンズ・ガワー・ストリート店は、まずその建物を見て恋に落ち、一歩入るともはや愛さずにはおれなくなる魅惑的な空間だ。一階のカフェは、朝から学生たちでごった返している。もともと住宅だった建物はいくつもの小部屋に分かれる有機的な構造で、迷路のようでもある。至るところに学生がいて、購入済みかどうかもわからない本を読みながら、あちこちに設置されたテーブルや椅子で読みふけっている。
アート本やアナログ・レコードを扱うギャラリー・スペースもあり、著者やアーティストによるイベントが定期的に開催されている。特筆すべきは新刊書店でありながら地下の一画で中古品や貴重な古書も扱っていることだ。古本の専門家も常駐し、必要であれば調べ物も手伝ってくれるそうだ。店員さんは知識豊富で、図書館司書のようにアドバイスをしてくれる。つまりそこは「血の通った大型書店である」と言えそうだ。英国一の巨大チェーンの一店舗だと言うことを、ついつい忘れてしまう親しみやすさこそ、ガワー・ストリート店の魔法なのだろう。
ここから知と芸術の殿堂でもある大英博物館までは、徒歩5分の距離。周囲にはこの地の歴史と結び付けられる小さな博物館が点在している。国民的作家のチャールズ・ディケンズも土地の個性に惹かれて移り住み、数多くの名作を執筆している。ブルームズベリーは伝統的に出版や本にまつわる独特の文化が宿る土地なのだ。
「書店員に聞け」足で訪れる知識のワンダーランド
この素晴らしい文化遺産を思い、改めてサイモンさんに聞いてみた。このデジタル時代、物理的に立ち寄ることのできる本屋さんの価値とは、一体何なのかと。
「その価値は計り知れないです。書店の実店舗マジックは二つ。まず、書店が知識のワンダーランドだということ。知らないことを知る喜びが、一つ屋根の下に集結しています。実際に自分の足で書店の門をくぐってきたなら、あとは好奇心に任せて歩き回ればいい。何時間でも。必ず新たな発見があり、そして運命の本に出会います。書店とは、未知を知る場所なのです。しかも出会いは本だけじゃない。著者を知ることになるので、それまで知らなかった人を知る場所でもあるわけですね。
もう一つは、書店員の『おすすめ』を聞くこと。これはものすごくパワフルなんです。コンピュータがユーザーのブラウザ閲覧履歴を使ってアルゴリズムを駆使し、『もしかするとこれも好きかも?』と勧めてくる本とは、全く別物です。書店に足を運んだら、ぜひ書店員と会話をしてみてほしいですね。自分の考えとは全く異なる考えを持つ人が、全く別の世界に連れて行ってくれるはずだから」