出羽三山参りの街道筋に建つ神社

 山形市内北西部に位置する内表は、古くは「内面」と称し嶋地区の辺りにあったが、藩主鳥居忠政の時代(1622〜1628)に馬見ヶ崎川の支流沿岸にあることから水害を恐れ現在地に移され、寛永年間に至って「内表」と改称された。また山形城下から続く六十里越街道筋にあり、出羽三山を目指す多くの修験者達が往来したところでもある。西の夜空の月山の頂きに月が浮いて見えることから旅人も村民も月を崇め、しぜん神社の祭神は「月読命(つきよみのみこと)」となった。



神社は国道112号沿い南側(写真左側)のバス停「内表村社前」にある。妙光院は道路右側の小路を入っていく。手前が山形市街地方面で、奥は船町から寒河江方面へ。


 神社の縁起については、天正年間(1573〜1591)に陸奥国の伊達信夫の行者が出羽三山への参詣の途中、内表の天台宗月光山妙光院に暑い旅の疲れを癒そうと立ち寄り重い笈(おい)を奉納して行った。それが後に「月山大権現」として村内の守護神になったと伝えられている。その月山大権現を祀るために建立されたのが妙光院の祈祷所で、当時の神仏混淆の習わしにより月山大権現は同時に阿弥陀如来でもあるとされたが、明治維新の神仏分離を経て、妙光院は付近に移転、妙光院の本尊は正観世音菩薩となった。
 ところが、役所に「大権現は神様ではない」と言われ、以後「稲荷神社」とし、昭和年代に入ってから「月山神社」と呼ぶようになった。



神社向いの北側にある月光山妙光院


立派な石垣の上に建つ本殿


地元の古老の話など

 「それでも終戦後までは内表大権現と呼んで、私の小さい頃は災害に遭わない神様として村人は皆『権現さま』と呼んでいた。災害がおさまったその年のお彼岸には神社で投げられる振る舞い餅をよく拾いに出掛けたものだ。明治の神仏分離令の時に、月山神社になってもご本尊を阿弥陀如来のまま仏様として残してくれたことが信心深い村人を育てたのだろう」と、地元の古老は語った。今でも本堂に祀られている阿弥陀如来は右側が欠けているという。ある干ばつが続いた時、村の有志が願いが叶わない思いを本尊にぶつけるように右側を叩いたら欠け落ちた。しかし雨が降って干ばつがおさまり、村人は一層神仏を崇めたというのだ。
 祭礼は神仏分離令以前は春秋2回であったが、現在は5月3日の1回だけとなった。祭礼の夜には鮮やかな御門燈が掲げられる。



平成2年に堂宇から由来書きの木箱が見つかった不動尊


手水舎社屋。左下の大きな石は「安政四年」と刻まれている休み石


境内には、「寛政11年」の湯殿山、「文化」年間の百萬遍碑、庚申供養碑などの石碑が並んでいる。


(出典:『やまがた街角 第85号』2018年発行)

●『やまがた街角』とは
文化、歴史、風土、自然をはじめ、山形にまつわるあらゆるものを様々な切り口から掘り下げるタウン誌。直木賞作家・高橋義夫や文芸評論家・池上冬樹、作曲家・服部公一など、山形にゆかりのある文化人も多数寄稿。2001年創刊。全88号。