小姓町、東前稲荷の道を西へ向かい、拡幅され綺麗に整備された大通りに出て南にぶらつくことにしよう。
信号があるコンビニの十字路から南は諏訪町になる。諏訪町の町割りはそれほど大きな区画ではない。地図を広げてみると小姓町とほぼ同じ面積に見え、東前稲荷の通りで南北に折りたためば、東西・南北共に対象になりそうである。しかし諏訪町は駅前大通りが伸びて一丁目と二丁目に分けられている(小姓町に区は無く一つである)。
信号から南に100mほど進む。途中左手に「諏訪町さわやか広場公園」があり更に進むと東に入る小路があり諏訪神社入口の看板がある。今は西からの脇参道になっているがこの小路が本来の参道である。それが南に駅前から延びる大通りが出来、南からが参道になった。
入ると右の石灯篭の後ろに「健康の碑」が建っていて、下部に「健康だから歩ける 歩けば健康を増す」とあり、なるほど確かである。街ぶらも歩くことから始まるので、碑文のとおりであると妙に納得。脇の添碑に「山形あるこう会三十五周年記念・山形歩こう会発祥の社・発祥昭和三十一年六月十日朝六時」と刻まれている。
境内に歩みを進めると左手に広く駐車場になっているところがある。明治の神仏分離前は此処に龍福寺という真言宗の寺院があり諏訪神社の別当であった。観音堂は山形三十三観音、十七番札所であったが廃寺後、八日町の誓願寺に移された。江戸時代の寺社絵図には、確かに神社境内に龍福寺が書かれている。
神社境内に入り南からの参道に廻る。立派な神門の前で一礼して門を潜る、門は御神輿蔵を兼ねているが、かつての本殿であったという。境内東側では毎月、第一日曜日に「山形古民具骨董蚤の市」が開かれる。30年以上続き、常連の客も多いという。
神社の御祭神は「建御名方神」(たけみなかたのかみ=諏訪明神)である。由緒は文明6年(1474)晴天が続き旱魃になり、不作で農民が苦しんでいた。時の城主最上義春公の夢枕に御祭神が「汝信仰の心あらば辰巳の方角樹木蒼にして荘厳の域に遷座せよ」と告げられ、早速この地に祀り雨乞いも行われ、雨乞いの最中に大雨が降りだし、この雨により初めて収穫されたものが茄子であった。それ以来人々は茄子を神の御加護と仰いだと伝えられている。今でも例大祭(毎年9月27日)には茄子を供え祈願している。
社殿に掲げられている扁額は第61~63代(昭和39~47年)の内閣総理大臣を務めた佐藤栄作筆である。
その他、境内社に福禄寿稲荷神社、普賢神社がある。以前は、東側の通りに抜けることが出来たが諏訪幼稚園の園内のため今は通り抜けできない。東側の通りからの脇参道にも諏訪神社の石柱が建っている。昭和初期まで、そこから少し入った北側に鐘楼が建っていたという。
境内の南東の一角に石塔群があり正面に「神苑開拓碑」と刻まれた大きな碑がある。神苑の入口に菊の紋章が彫られた横に大きな石があり中に、ひときわ大きな象頭山の石塔がある。石塔群は、広い境内にあったものを一カ所に集めたものだろうか。
神社前の道路拡幅によって境内の欅の大木等の樹木が何本か伐採されるのではないかといった声も聞かれたが、切らずに残っている。幅の広い道路は境内地だったところの西側で、やや南にカーブし広い歩道は7~8本の立ち木を避けるように、くねらせて通している。東に少し進むと広い十字路の東北角にコンビニがある。ここは以前T字路で、北側には浄土宗の寺院、成願寺があった。
諏訪神社よりも低く窪んだ処にあったため、「窪の成願寺」と呼ばれた。門前には中央に湯殿山・左に羽黒・右に月山と刻まれた三山碑が建っていた。碑は諏訪神社境内にあったものが江戸時代、大洪水で成願寺前に逆流したものという。「木の葉が沈んで大石が浮く」という言葉通りである。寺院は岩波に移遷、山門と湯殿山碑はそのままの姿で移建されている。
参考文献
・『山形県神社誌』山形県神社庁
・『山形のお寺さん』YTS
・『第5回私たちのたからもの』県立博物館友の会
(出典:『やまがた街角 第86号』2018年発行)
※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。
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文化、歴史、風土、自然をはじめ、山形にまつわるあらゆるものを様々な切り口から掘り下げるタウン誌。直木賞作家・高橋義夫や文芸評論家・池上冬樹、作曲家・服部公一など、山形にゆかりのある文化人も多数寄稿。2001年創刊。全88号。