「お山王さま」の由来

 山寺へ行くと根本中堂の石段を登るが、手前にある細い石段が日枝神社への参道である。神社前には右手に根本中堂、左へ行けば奥之院への800段を越える石段の山門がある。この神社が山寺の主役になるのは、毎年5月17日の例大祭「山王祭」の時である。その「山王」は日枝神社の由来にある。
 日枝神社とは、延暦7年(788)天台宗の開祖伝教大師最澄が延暦寺を創建した時に、その一山の守護神として近江国坂本に日枝神社を祀ったことに始まり、当時比叡山一帯の地主神、産土神(うぶすながみ)である「山王」を21社に祀った。その分霊として、貞観2年(860)天台宗第三座主慈覚大師円仁が出羽国山寺に大宮山王権現と称し二ノ宮、三ノ宮、客人権現、更に21社と共に、神仏習合の東北地方における一大拠点となった。



山寺日枝神社の参道入口。「煩悩の数108段」という石段がある。(根本中堂入口よりも南側手前)


 しかし、大永元年(1521)、山形城主「最上家」の家督親族争いの合間に、天童城主「天童頼長」等の一軍が山寺一帯を神社もろとも焼き討ちした。そのために文禄年間(1592〜1596)には一時、千手院に祀られていた。そこで天文2年(1634)に一山の守護神として再建され、江戸幕府より264石の御朱印を与えられることとなった。



「こけし塚」と御神輿殿


境内にある願掛け石「亀の甲石」


 その後、明治の分離令により立石寺の管理から離れ高見家31代目宮司に引き渡され、山寺日枝神社となり、山寺村と一山の守護神として今日に至っている。山王祭とともに、今も「お山王さま」と呼ばれ親しまれている。


根本中堂から神社へ向かう前にある “偉い人だけが渡ることができる” という「橋殿」。


走る神輿渡御「山王祭」と境内巡り

 例大祭「山王祭」は神輿を走って担ぐ珍しい神事である。根本中堂と並ぶ神社前での宮出しの神事の後、三基の御神輿が石段を下り、門前町の通りをひた走る。「御生(みあ)れ神事」といわれ、おんどりとめんどりの神輿が卵の神輿を「オリャー」の掛け声で追い立てる神輿渡御である。それを3回繰り返す合間に神輿を激しく揺さぶるのは陣痛を意味し、卵を追うのは子供の康と自立を願うことを表わしているという。



5月17日の山王祭


山寺から奥へ入った通り沿いにある 最上三十三観音巡り第二番札所千手観音入口の “ついてる鳥居” 。ぜひお試しあれ⁉(観音堂へは仙山線をまたいで石段を登る)


 神社境内には、根回り約10mという大イチョウの御神木や大正天皇と皇后行啓記念樹の他、御神輿殿やこけし塚、芭蕉ゆかりの手水盤があり、「亀の甲石」という願掛け石もある。珍しいのは水に浸す「水みくじ」があること。
 神社散歩のついでに、せっかくなので参道の石段横にある蕎麦店「信敬坊」に立ち寄った。店主の遠藤邦雄さんは、「山寺に来たら、日枝神社にも足を止めて旅の安全を祈願して行って下さい。山寺のお蕎麦も美味しいですから」と店の宣伝も忘れなかった。


(出典:『やまがた街角 第86号』2018年発行)
※一部表現、寄稿者の肩書等に掲載誌発刊時点のものがあります。

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文化、歴史、風土、自然をはじめ、山形にまつわるあらゆるものを様々な切り口から掘り下げるタウン誌。直木賞作家・高橋義夫や文芸評論家・池上冬樹、作曲家・服部公一など、山形にゆかりのある文化人も多数寄稿。2001年創刊。全88号。