都会の片隅にある愛すべきサンクチュアリ。
静かな裏通りにひっそり佇む本屋は、オーナーの思いが詰まった、本好きのコミュニティ空間でもある。
ふらりと立ち寄って、本の世界に浸る時間を過ごしたい。
香港と聞いて思い浮かぶのは、きらめく摩天楼が建ち並ぶ大都会か。それとも色とりどりに東西が融合した街の喧噪だろうか。
そんな香港の都心にありながら、隠れ家のような風情の本屋「マウントゼロ」は、2018年にオープン。その何もかもが、香港では異色中の異色な存在だ。
何がそれほど異色なのか。まず世界一地価が高く、生き馬の目をぬく競争社会でもある香港では、地価が安かった頃から土地を所有する老舗を除けば、都市部に個人経営の個性的な路面店がほとんどない。そして元来、書店文化は弱くて軒数も少なく、無味乾燥なチェーン店がほとんど。さらに紙メディアの衰退スピードが日本より進んでいる。
そんな香港だから、商売っ気をまるで感じさせない「マウントゼロ」は、「この本屋が香港に?」と目を見張らされる空間なのだ。
小さな古い一軒屋のがたつく扉を押して「マウントゼロ」に足を踏み入れると、8畳ほどのスペースに、無造作に本が積み上げられた大きなテーブルがある。いたるところにアートや雑貨が飾られ、奥にはキッチンが見えて、まるで本好きの誰かの家に迷い込んでしまったような気分になる。
細い階段を昇って2階に行けば、さらに小さな空間に古書がたっぷり並んだ本棚や、窓の外を眺めながら寛げるカウンター席もある。「落ち着いて本を読むスペースが欲しい人に気軽に使って欲しくて。家から持ってきた本を読むのも歓迎ですよ」と微笑むのが、オーナーのシャロン・チャンさん。
「チキンスープ」のような店にしたい
かつて世界的に有名な金融企業の一線で働いていたシャロンさんだったが、数字ばかりを扱う仕事が決して好きにはなれなかったという。「次に何をするかを決めずに仕事を辞めて、お気に入りのエリアを散歩していたら、行きつけの花屋が閉店して空き家になっていたんです。幼い頃から本の虫だったこともあって、ほとんど衝動的にここで本屋を始めようと決めました」
とはいえ、ビジネス経験も書店経営の知識も皆無だったシャロンさん。「手探りでも自分1人で回して行ければいいと思って、自分が読書を楽しめるように、居心地が良くて温かい空間を作ってみました。気に入ってくれた人が多くてラッキーでした」と笑う。
マウントゼロには、知的好奇心を刺激される魅力的なタイトルが並ぶ。
「『心霊鶏湯』という、『Chicken Soup for Soul』という本の中国語タイトルが由来の『魂を癒すもの』を意味する表現があるのだけれども、そんな心の栄養になるような本を集めることが私の信条」。
主に取り扱っているのは、中国語の文学、旅、アートの書籍。「書籍出版が盛んで香港と同じ繁体字を使っている台湾と、地元香港の書籍が半々」とシャロンさん。蔵書の9割以上が中国語で、英語の書籍は1割未満だという。
台湾と同じく、日本文化の影響が強い香港らしく、太宰治の『人間失格』や谷崎潤一郎の『卍』などの近代文学から、川本三郎、隈研吾、そしてシャロンさんは「大ファンで彼の本はすべて読んだ」という坂本龍一の遺作『ぼくはあと何回、満月をみるだろう』の中国語版も置かれていたほか、2階には田村隆一が編纂した、〈世界の詩〉シリーズの草野心平や中野重治の初版本も。
「日本語は読めないけれど、中国語と違う漢字の使い方が面白くて、日本語の詩集が大好き」とシャロンさんが言う通り、逆に中国語が分からない日本人からしても、マウントゼロの蔵書は表紙を見るだけでも、テーマや切り口が伝わって来るし、日本とはひと味違う斬新なブックデザインに惹かれて、ワクワクするようなものばかり。
日替わり店長が店の推進役
シャロンさんには、魅力的な本を選ぶ目利きであることに加えて、もう一つ天賦の才がある。それは「彼女の周りに人が集まる」こと。それはマウントゼロを創業してからも変わらず、本屋でありながら、強いコミュニティ感覚を持つ空間としての基盤となる、非常にユニークな経営システムが自然発生するきっかけになった。
「開業前の改装を、会社員時代から主催していた読書会のメンバー2人が手伝ってくれて。そうしたら情が移ってしまったのか、『私たちもここで働きたい』と言い出して」。
そのうち、オフラインで会ったブロガー仲間、店の常連になった引退している元人気作詞家など、個性あふれる面々が集まり始めて、シャロンさんは彼女たちに「1人で1日店を仕切る」という日替わり店長の役割を託すようになった。「小さい店だから、スタッフは1人で回せる。彼女たちにもそれぞれファンやフォロワーがいて、店長目当てに訪れる常連客も多いんですよ」。
現在7人の常勤店長と3人の非常勤店長がいて、常勤店長の担当は曜日で決まっている。シャロンさん自身は、あえて自分がいないことで店長達が自主性を発揮できるようにと、外で書籍の仕入れや、会計などの経営面を扱うことが主になっているとか。
店長達が、気になる本をテーマにした読書会を店内や天候が良い季節には外の路地で開催するなど、徐々に本好きが集う活動の拠点になることが増えてきた。
さらに自然と始まったのが「3年前からの自社出版。今のところ7冊発行しました。いろいろな作家を扱っているけれども、たとえば元作詞家の金曜日の店長の著書もあれば、うちで時々店長をしていた文才のある大学生が、その間に見聞したことや読んだ本のことなどを書いたエッセイが面白くて、うちで出版しています」
密かに注目される雑貨たち
マウントゼロの店内には、いたるところに多彩な雑貨が置かれていて人気が高く、「特にクリスマス前には全部売り切れたりするんですよ」とシャロンさん。
これも、シャロンさんが元々計画していたわけではなく、常連客が「私がデザインするからオリジナルTシャツを作らない?」と声をかけてきたのがきっかけだったとか。
それがとても好評で、いつの間にかアーティストでもある数名の店長や常連が、自作品をどんどん置くようになったり、近所の若いアーティストを応援するために陳列スペースを提供したり。シャロンさんの磁力にあらゆるものが引き寄せられて、店の魅力を作り出している。
香港で息の長い店になるために
マウントゼロを取材すると決めてから、筆者がもっとも気になったのが店の永続性。
とにかく香港では、住宅では東京の2倍以上、商業空間ではそれ以上に家賃が高い。そして他より家賃が低めなエリアに、若いオーナーの面白いショップが集まり始めて注目を浴びるようになると、今後に期待した大家が軒並み家賃を値上げする。倍増も珍しくないため、まかないきれなくなり閉店し、結局何もない場所に逆戻り……そんな悲しい現実を過去に何度も見てきた。
「マウントゼロ」があるのは、香港では珍しいのんびりした路面店が連なる太平山街。ここは大手デベロッパーには買い占められたりしていない代わりに、店の入れ替わりが非常に激しい。
だが、香港のそんな事情を知り尽くしていたシャロンさんは「家賃の高騰に振り回されたくなかったから」と、住んでいたマンションを売った資金で一軒屋を丸ごと購入。自ら大家になるという英断をしていた!
「今は平日に20~30人、週末に60~80人位の来店があって、常連と観光客が半々。まったく広告も出していないけど、口コミで来てくれるようです。店の大きさも店長1人で回せる範囲に留めながら、ほそぼそと続けていけそうです」という言葉を聞いて、栄枯盛衰の激しい香港で長生きができる、ますます稀有なる本屋さんであることがわかって嬉しくなった。