中山長崎城の人脈
JR左沢線と並行して南北約4km区間の県道中山山辺線が一直線に延びる。この道は通称「立道(たつみち)」とも呼ばれ、開削当時の次のような話が語り継がれている。
時は戦国期、長崎城主三代の中山宗朝と寒河江又五郎高重の娘との間に「直誠」「朝勝」「直政」の三人の男子がいた。四代城主を継いだ長男の直誠は、寒河江宗家の分家筋に当たる左沢彦次郎満政の娘と結ばれたが子供にも恵まれず26歳の若さで他界した。続いて二男の朝勝は既に白岩備前の娘を娶っており、そのまま兄から継承して四代城主に居すわった。だが、彦次郎満政は、せっかく嫁がせた娘が未亡人になったことを悔やみ、このまま引き下がるわけにはいかず中山家の行方をうかがっていた。そんな矢先、朝勝は戦略上、長崎城西方の谷木沢山中に支城を構築して移り住んだ。代わって唯一独身の三男直政が本城の長崎城主五代目に就くと、彦次郎満政は娘の再婚を直政に強引に迫り、結局2人は夫婦にされて四男一女をもうけた。やがて2人の間に生まれた長男の就広は六代城主に就き、「辰姫」と名付けられた末の娘は美しく成長して領内でも大変な評判であった。その頃、隣の山野邊城主の山野邊刑部直広は家運振るわず嫁の捜しに困っていた。そこで彦次郎政満は、寒河江の宗家を通じて長崎の有力な渋谷谷左衛門と策略し、直広に孫娘の辰姫との縁談を持ち掛けたところ話は順調に進んだという。
辰姫の婚礼
こうして婚姻関係がめでたく成立すると、辰姫の嫁入り行列のために双方の領地を結ぶ道路の開削が行なわれた。古くこの一帯は最上川が入り組んで流れており、軟弱な土地柄とあって幾百人の村人による工事が行なわれたが一向に進まず完成まで幾年も費やした。ようやく開通した道はむかさりの道ばかりではなく、これから姻戚関係になろうとしている中山、山野邊の交易道としても大変有意義な道筋とも思われた。しかし、婚礼を迎えた1503(文亀3)年3月1日、一人の妹である辰姫を手放すことになった就広は日頃の病弱な身も忘れて張り切っていたが、時刻になっても行列警護の家来たちが城へ来ないために家老の渋谷左衛門を促して嫁入り行列を発たせたものの複雑な心境だった。一方、行列の駕籠の中で辰姫は策略結婚とも知らずに心は落ち着いていた。だが、よほどの道のりを進んだと思った途端、行列は突然休んで動かなくなった。外を見るとまだ達磨寺村の弁財天の社の付近に差しかかったばかりだった。辰姫は不穏さを感じて輿入れの重大さを警護の指揮に当たる鎌田という家来に問い詰めた。すると人情にもろい鎌田は、秘かに「左沢彦次郎満政さまと渋谷谷左衛門さまが結託し、輿入れの道具といっしょに武器を隠し入れて行列が山野邊城に着き次第、宴たけなわの頃を見計らい城を急襲することを企てております。そのため死を覚悟した家来たちは家族と水盃を交わしたために城に登るのが遅れたのでございますー」と辰姫に白状した。この恐ろしい謀略のために嫁ぐと知った辰姫は狂乱して駕籠から出ると弁財天の社へ逃げ込み、近くを流れる最上川へ身を投げた。そしてこの悲報を聞いた兄の就広は悲痛のあまり病が悪化して間もなく他界したという。後の世に村人は「辰姫」の名にあやかり、この道を「立道」と呼ぶようになったという。
伝説の真相
この伝え話は中山側の要旨だが、一方の山辺側の伝説によると、山野邊城と長崎城の祝儀が成立したが山野邊の城主はこの機会に長崎城の攻略を企てた。婚礼の日、長崎城内は朝から家来たちに祝い酒を振る舞い、夕方に嫁入り行列を出発させた。その刻限に山野邊城主は武装した家来たちを長崎城へ送り込み、酔った留守役の家来たちに不意討ちをかけ落城させた。難を逃れた一人の家来が辰姫の行列を追いかけ、ようやく最上川に架かる橋を渡り終えたときに危急を知らせた。すると辰姫は「この事態は何事か、あの世で竜になってたたってやる」と言い残し川に身を投げたという逆説が語られている。また、「中山町の民話と伝説」の解説によると、中山氏系図の文書には「山野邊刑部直広ノ妻、文亀三癸亥三月朔日嫁入、山野邊ヨリ長崎江ノ新道此時付者也」とある。これを要約すると「長崎六代目城主就広の妹(辰姫)は、山野邊刑部直広の妻として1503(文亀3)年癸亥(干支・みずのとのい)3月1日に嫁入りをした。この時、山野邊から長崎へ至る新道ができた」ことを意味しており、辰姫は事実山野邊城に嫁いでいることは確かであると記している。後の1514(永正11)年2月、最上家に従属する山野邊刑部直広は九代の最上義定と伊達家十四代稙宗との長谷堂抗争に参戦するが、辰姫の間に嫡子がないまま他界した。後継ぎに困った辰姫は甥の中山広時を養子に迎えたという。それ以来、山野邊家の辰姫に関わる経緯は不詳とされている。また、東海林庄九郎の著書「中山鏡」には、中山の達磨寺や向新田の集落は山野邊の侍が移り住み帰農した土地柄らしい。そこで子孫たちは先祖が慕った城主の直広が戦死したことや家運急落の不幸話を抹消するために辰姫入水の伝え話を創作したとも推測されると載せている。
もう一つの悲劇
辰姫が身を投げた弁財天の社付近を流れる最上川は、中世期ごろは徒歩で渡れるほどの浅瀬であった。そこで時の女性たちは着物が濡れないように裾を腰までたぐり上げて対岸を行き来していたという。弁財天には厳島神社から勧請した市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする琵琶を手にしたふくよかな裸の女人像も安置され、河岸で働く男衆も多く、神前の川を素足で渡る女性たちはどれほど色気を感じさせていたのか、いつとはなしにこの地を「色御瀬(いろごせ)」と呼ぶようになったという。さらに戦国期、近くの村に小雪という幼女を持つ武士が住んでいた。ある日、戦の帰り道に敵の矢を受けてこの弁財天の境内で倒れた。咄嗟に駆けつけた戦友に、息耐えながら「わが子を立派に育てくれるよう、妻に伝えてほしい」と告げて亡くなった。それから幾年後、美しい娘に成長した小雪は、亡き父の面影を胸に弁財天参りを続け、自分の姿を最上川の川面に映した。すると水底から「私とよく似た娘になったー」と父親の優しい声が聞こえ、小雪は川の中に吸い込まれるように消えたという。辰姫物語もこうした伝え話なども附会して語り継がれてきたのかもしれない。
(出典:『やまがた街角 第87号』2018年発行)
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