デザイン性の高い高層ビルが立ち並ぶバンコク都心の高級デパート。
そこにある巨大な書店は多種多様な訪問者の知的好奇心をくすぐる都会のオアシスだ。


床から天井まで壁一面に広がる本棚は大型サイズのアートブックに 合わせて作ったもの。


 めまぐるしく進化するタイの首都バンコク。その中心部にあるプルンチットは、国際企業や金融機関が集まるビジネス街と、 大使館が集中する高級住宅地という側面を持つ街だ。このタイ最高値の土地にそびえ立つ高級デパー ト「セントラル・エンバシー」には、ハイブランドのショップや飲食店が入居し、毎日4〜6万人が訪れる。
  今回ご紹介するのは、その6階を丸ごと使った複合施設「オープン・ハウス」。書店、コワーキングスペース、キッズスペース、カフェ、レストランなどが一体化し、4600平米あるフロアのどこにいても本の表紙が目に飛び込んでくる作りとなっている。設計はGoogle JapanのオフィスやYoutube Space Tokyoも手がけた「クライン・ダイサム・アーキテックツ」によるもの。 アートブックを主体とする書店「ハードカバー」が書籍や文具の 販売を担っている。デザイン、写真、ファッション、古美術、建築など幅広いアート関連に加え、旅、 料理、ライフスタイル、文化、LGBTQ関連など約2万冊が揃い、その多くは洋書で2割がタイ語書籍や児童書だ。


探究心を刺激する 芸術とアジア関連書籍の宝庫

 タイでも新型コロナのパンデミックは書籍市場に大きな影響を与え、電子書籍の需要は増したが、実店舗の閉店縮小、流通の混乱により実書籍の売り上げは減少。熱心な読書家に支えられている小さな個性派書店は、オンライン販売に尽力することで実店舗の営業をなんとか維持している。中間層は読書よりSNSに写真を投稿できる “体験”にお金を使いがち…。
 そんな中、街の一等地でタイ書籍の数倍の値段のアート書籍や輸入書籍を中心に販売するこの書店はタイの中でも異色の存在だ。
 2017年のオープン当初はタイ人と外国人のお客さまが半々だったが、国内のコロナ不況などもあり、現在は7〜8割が外国人。タイやベトナム、マレーシア、香港など近隣諸国のクリエーター、アート好きはもちろん、欧米、中東、アジア各国からの観光客や出張者など様々な人が訪れるが、そんな多様性に富んだ背景を持つ人々の好奇心を満たしてくれる書籍が必ず見つかるのがこの書店の何よりの魅力。最新の洋書の品揃えも目を見張るものがあるが、特筆すべきはタイとアジア全域の芸術・文化に関する書籍。独立系出版社の刊行物やアーティストの自費出版本、ハンドキャリーした一般販売ルートでは流通しない近隣諸国の美術館のカタログなど、ここでしか見つからない書籍も多い。


ソファーに腰を下ろし、気になった本を手に心ゆくまま過ごすことができる。テーブル席はレストラン。


存在感のある棚は、上級階のホテル「パークハイアット・バンコク」を支える50本の大きな柱を自然に隠す設計。


書店オーナーのシェーンさんは芸術と本と本作りが好き。もっと資金があれば更に品揃えを充実させたいと語る。


独創的で個性豊かな品揃えのひみつ

 筆者が最初に「オープン・ハウス」を訪れたきっかけは、ここの「日本の写真集」の棚の充実ぶりに驚いた写真家の友人に強く勧められたから。日本の専門店でももう見かけない貴重な書籍などもあり、私もすっかり虜に。のちにその棚は日本のshashasha(※1)や禅フォトギャラリー(※2)などの協力のもとに厳選されたものだと知った。ただ、このように各分野のスペシャリストを招きつつも、この幅広い品揃えの大半をコントロールしているのはオーナーであるシェーン・スウィガパゴンクンさん自身。「これまでの経験や情熱を全て注ぎ込んだ」と語る彼に、この書店の成り立ちを訊ねた。
「シカゴのノースウェスタン大学に留学し、データベースを活用したダイレクトマーケティングを学び、1992年に卒業してすぐ、中国やインド、チベット、ブータンを始めとするアジアの芸術と文化に関する専門書籍を扱うアカデミックなアート業界では知られた書店「パラゴン・ブック・ギャラリー」で働き始めました。インターネット以前の時代だったので、図書館のように膨大な書籍リストをカタログ化して顧客に送り、FAXで注文を受けて本を郵送するようにシステム化しました。私自身もアート好きだし、タイミングもよく、うまくいく確信がありましたね。そして2003年にロンドンのアート書籍専門の出版社「セリンディア・パブリケーションズ」を購入。アウサン・スーチーの英国人夫の双子の兄で、チベット学者でもあるオーナーが引退するということで引き継ぎ、会社をアメリカに移しました。」
その後06年にタイに戻り、09年にアートギャラリー「セリンディア・ギャラリー(閉業済)」を設立。そこでタッシェン(※3)の書籍を集めたポップアップストアを開催した際にバンコク芸術文化センターやセントラル・グループから声がかかり、12年にアートブック専門店「ハードカバー」を創業した。


まるで美術館のような文具コーナーには、日本のセーラーの万年筆やドイツのロイヒトトゥルム1917のノートなど輸入品が並ぶ。


お客さまと本の出会いを提供


 ここはアート好きだけのための場所ではない。タイにやってくる様々な層の旅行者にもインスピレーションを与える場所だ。例えば、バンコクを歩いて疑問に感じた街や文化についてビジュアル付きで解説する本が揃っているし、ミャンマー旅行の後だとしたら、現地書店では見つけられなかったミャンマー建築の歴史や仏教美術の英語書籍が簡単に手に入る。そして「どこから来た文化なの?」「お隣の国は?」と、湧き上がる好奇心のまま本を手に取ると、更に新しい場所に旅に出かけたくなること必須だ。
 また文具やアート作品も販売しており、タイの陶芸家が作った陶器や小さな絵画などは旅行者にも好評。あれこれ目移りしても流行りのカフェやレストランで一息つきながら考えられるので、つい長居してしまう。
 「こんな本があるんだ!」という店での本との出会いを提供することにこだわりを持つシェーンさん。表紙を見せるように立てかけた本棚の書籍は頻繁に入れ替え、傷みやすい本以外は可能な限り封をせず、本を手に取りやすいように細心の注意を払う。特定の本の宣伝やオンライン販売には力を入れないそう。
「タイの出版社は本を作ると自らオンラインで事前予約を受けて販売し、一定量売れると残りはすぐ値引きして売ります。読者も分かっているので、すぐには買わない。当然、書店の利益も年々減り、出版社自らマーケットを縮小させている状況です。」ここでは本の値引きはされないが「本の価値を本当に分かってくれる人が見つけてくれる」と語る。
 かつて10年程バンコクの大学で教鞭を取り、カナダに帰った今も冬になるとタイに来てはここを訪れるというお客さまのジェフ・ディッキーさん。タイ滞在中は3週間に一度、毎回2〜3時間滞在する。「オープン・ハウス」に通う理由は「経済ニュースを読みたいなら他店に行きますが、ここは自国にも無いような、ここでしか見つからない本に出会えるから」
 ジェフさんお気に入りの古書コーナーには、芸術・文化関連の分厚い専門書が並ぶ。イギリスの新石器時代について1950年代に書かれたケンブリッジ大学の研究書とフランス語のエジプト考古学の学術書を手に取り「古い本だけにしか書かれていないことがあるから面白いんだ。学校で教えられているような新しい歴史と読み比べて、歴史がどう変えられたのか自分なりに答え合わせをしている」と、楽しそうに教えてくれた。
 最後に改めて、シェーンさんがこんな話をしてくれた。
「時々、たくさん購入してくれたお客さまのレシートを見ることがあります。購入品を見ると仏教美術、生物学の学術書、レアなアーティスの本といった多岐ジャンルの本を店内くまなく歩き回って見つけ出してくれたことが手に取るように分かり、幸せを感じます。良い目を持っているなと思うし、そして何より自分が正しい道にいると確信することができます」




タイ語や英語の絵本は過去に出版社で児童書を制作していたスタッフによって激戦されたもの。子どもや家族向けのワークショップも頻繁に開催。

旧市街地の歴史や建築をスケッチと英・タイ語で解説した「バンコク・ショップハウス」は観光客に人気。


(※1)東京を拠点とするアートブック専門のオンライン書店。
(※2)アジア諸国の写真を専門に紹介するギャラリー。
(※3)美術・建築・デザイン書を中心に扱うドイツの出版社。

※本記事は『八文字屋plus+ Vol.6 春号』に掲載されたものです。
※記事の内容は、執筆時点のものです。